※本文は村山康文さんご本人の了解のもとに、原稿をそのまま掲載させていただいております。
 
また、村山康文さんは、今回のレポートに登場する グエン・ティ・アンさん(73歳)の日本への招聘を、クラウドファンディングを通して計画されています。
 

 

グエン・ティ・アン(日本名:「くすはら」もしくは「くずはら」まりこ)さん(73歳)
20183月撮影)

◆  彼女との出会い
私が彼女に初めて出会ったのは、2006年12月のことだった。
 
乾期に入ったサイゴン(現ホーチミン市)は、クリスマス前だというのに連日30度を超え、うだるような暑さが続いていた。
 
クリスマスの買い出し客らで混み合うベンタイン市場。私は取材の情報を得るために、溢れる人混みの中、お年寄りを探し出しては出身地を聞いて回っていた。
 
「こんにちは。出身はどちらですか?」
 
横を通りかかった初老の女性に私は尋ねた。
 
「生まれはサイゴンです」
 
急な質問にも関わらず、彼女は笑顔で応えてくれた。
 
ベトナム戦争時代の中部の情報が欲しかった私は「ありがとうございます」と言って、立ち去ろうとした。すると彼女のひと言が、通り過ぎようとした私の足を止めた。
 
「あなたは日本人ですか? あたしの父は日本人なんです」
 
「日本人?」
 
日本語が全くできない彼女。私は自分の耳を疑った。
 
「父は太平洋戦争中に、サイゴンに来ていたんです。そこで、ベトナム人の母と結婚し、あたしが生まれました」
 
彼女の不意を突いた言葉に、私は興味を抱いた。連絡先を聞き、後日、ゆっくりとお話を聞かせてもらうことにした。
 
時として、偶然の出会いは必然となる。それはクリスマスを4日後に控えた21日のことだった。

まりこさんは自宅を学習塾として開放している
20076月撮影)

教師時代のまりこさん。同僚と(上段中)
20083月撮影)

◆  彼女の自宅へ
翌日、私は彼女の自宅を訪ねた。彼女の家は、サイゴンでも有名な治安の悪い場所にあり、お世辞にも立派な家だとは言い難かった。
 
自宅の軒下に机を並べ、午前と午後の部にわけて、近所に住む子どもらのために寺子屋のような学習塾を開いていた。
 
その場所は雨期には床下浸水するため、子どもたちは椅子の上に足をあげて勉強するという。学習塾と言ってもエリートを輩出する進学塾のようなものではなく、学校に行けない子や片親で生活が苦しい子、また、麻薬におぼれた親を持つ子や売春をしている母親を持つ子に、彼女は薄謝で文字の読み書きを教えていた。
 
「とても優しく熱心な先生です。わからないところがあると、理解できるようになるまで丁寧に教えてくださいます。
 
ここに来ると友だちができるから楽しいです」と、勉強に来ていた11歳(2011年の取材時)の少女は話した。
 
彼女の名前はグエン・ティ・アンさん。「くすはら(もしくは『くずはら』)まりこ」(*脚注1)という日本名がある。若いころ小学校の教師をしていたまりこさん。
 
今年62歳(2007年の取材時)になる彼女の人生は、この上なく壮絶なものだった。

太平洋戦争時代のサイゴン港
(防衛研究図書館で入手)

弟のサンさん(右)とサンさんの長男(中)
20076月撮影)

◆  彼女の過去
太平洋戦争時代、まりこさんの父親は、軍人、軍属としてベトナムに進駐したわけではなかった。
 
主にベトナムに進駐してきた日本兵やベトナムを経て、フィリピンやインドネシアに侵攻していく日本兵を相手に、雑貨屋兼レストランを経営していた商売人だった。
 
父親は、その店で2人の日本人女性従業員(OTOさんとHAMAKOさん:姓か名かは不明)と16人のベトナム人従業員を使っていた。
 
その店のベトナム人従業員のひとりが、後にまりこさんの母親になる。
 
1943年、ベトナムに渡り、サイゴンの繁華街(ハム・ギー通り、現在ニューランというパン屋さんがある付近)に店を出した父親。翌44年10月12日にまりこさんは生まれる。
 
しかし、父親が渡越して2年もたたないうちに、日本軍の勢いは落ち、ベトナムからどんどんと撤退していった。
 
当時、30代半ば(35~37歳)だった父親は、「外国人国外退去命令」により、太平洋戦争終結直前の45年初夏(不確か:5月~7月)に日本へと帰らざるを得なかった(*脚注2)。そのとき、18歳の母親は弟を身籠っていた。
 
父親が日本に帰国した3年後に母親は、まりこさんと弟(サンさん:45年11月20日生まれ)を連れてベトナム人と再婚する。
 
再婚後、新しい父親は日本人の前夫の思い出を大切にしている母親に腹を立て、「思い出の品は全て捨てろ」と命じる。
 
母親は拒んだが、新しい父親はそれを許さず、母親の隙を見てほぼ全ての「思い出の品」を焼き払ってしまう。
 
その状況を男友だちに相談していた母親。
 
まもなく再婚相手から逃げ、その相談に乗っていた相手と再々婚する。
 
しかし、その再々婚相手に「連れ子はいらない」と言われた母親は、まりこさんと弟を祖母(母親のお母さん)に預けた。

幼少期のまりこさん。母の温もりを感じる
20104月撮影)

祖母に大切に育てられたまりこさん。
 
小学生の頃、学校で「わからないことはどうしてお父さんやお母さんに聞かないの?」といじめられたという。
 
当時のことを思い出しながら、「学校ではそれほど気にはしてなかったけど、家に帰るとおばあちゃんしかいなかったから本当に寂しかった」と話した。
 
まりこさんは必死に勉学に励み、大学を卒業して小学校の教師になった。
 
「おばあちゃんから受けた愛情を、今度は子どもたちにも注いであげたかったんです」
 
しかし、その頃のベトナムは第2次インドシナ戦争(ベトナム戦争)へと突入していく。
 
まりこさんは、生涯独身でいる。
 
若いころは人並みに恋をした。
 
恋人と結婚しようと誓い合ったこともあったが、父親がいない上にハーフだという理由で相手の両親に断られた。
 
年頃に一度だけお見合いもしたが、やはり同じ理由で認めてもらえなかった。
 
そのときに、「誰もわたしの境遇を許してくれないのなら、弟のために、子どもたちのために人生を捧げようと」と誓う。弟は、まりこさんの努力が実り、結婚し、子どもにも恵まれた。
ベトナム戦争は、75年4月30日に終戦を迎え、次第に落ち着いていったかのように見えた。しかし、まりこさんの心の中には、いつも「戦争」の二文字があった。

アメリカに住む母親から送られてきた写真を大切に保管している
(上:20103月、下:083月撮影)

まりこさんの母親の3番目の父親は、ベトナム戦争中に米軍と一緒に南ベトナム解放民族戦線(北ベトナム軍)と戦っていた。
 
ベトナム戦争終結後に難民として渡米した3番目の父親。
 
その後、93年に母親と、父親が違うまりこさんの弟と妹9人のうち3人をアメリカに呼び寄せた。
 
母親は、3番目の父親とアメリカで新しい生活を送り、年に一、二度、思い出したかのように国際電話で「元気かい?」とだけ、まりこさんに連絡が来るという。
 

父の写真。塩化銀が剥がれ落ち、うっすらと男性のシルエットが浮かび上がっている
1940年代半ばのものとみられる)
20104月撮影)

◆  彼女の今と未来への希望
「歳をとるとだんだんと体が悪くなってきて、病院に行きたいんだけど、それほどお金の余裕がないんだよ」
 
小学校教師を定年後に始めた学習塾。今でも近所の多くの子どもらがまりこさんの家に集い、学ぶ。
 
まりこさんは「毎日、子どもたちが来てくれて嬉しい」とは言うが、日増しに悪くなっていく体を労わりながら生活を送っている。
 
いつも遠くにいる母親を思い出し、顔も覚えていない父親を「探し出して会いたい」と願う。
 
「戦争は誰しも嫌なものだよ。戦争のせいで家族が生きながらにして離れ離れになるのは、あまりにも寂しすぎるね」と、目に涙を溜めた。
 

涙を溜め、父を想うまりこさん
20072月撮影)

(*脚注1) 
「くすはら」もしくは「くずはら」:アメリカに住む母親が発音していた音をまりこさんが発声したものだけが手がかり。父親の名前が書かれたと思われる書類等は一切残っていない。
 
(*脚注2) 
1945年初夏(5月~7月):20184月、兵庫県神戸市にある「戦没した船と海員の資料館」の専門職員によると、「45年の5月~7月に日本に帰還した船はない」と思われるとのこと。理由として、同年3月までに引揚できるような大きな船はすべて米軍の攻撃で沈没したため。同年10月以降には、引揚ができる港(場所)を作り、引揚が始まった。46年のことであれば、可能性がある。サイゴン港(南方)方面は、広島県の大竹港に引揚げられた可能性大。

[彼女と出会ってからの村山の動き]
 
◆  2006年
1221日(木) 村山が別の取材中、ベンタイン市場でまりこさん(娘)に偶然出会う。
1222日(金) まりこさん宅へ訪問し、取材。
1227日(水) 帰国後、厚生労働省へ電話。
 
◆  2007年
130日(火) 現地通訳から確認のメール。
218日(日) 自宅へ訪問し、再度取材。
225日(日) 自宅へ訪問し、三度目の取材。
226日(月) 在ベトナム日本領事館へまりこさんに同行してもらい、村山との関係性を明らかにする。
312日(月) 帰国後、厚生労働省及び外務省に電話。
319日(月) 法務省、入国管理局へ電話。
また、和歌山(串本)、徳島、鹿児島の「楠原酒店」へ電話をするが、手がかりなし。
3月某日 テレビ朝日、よみうりテレビに連絡し、番組の企画書提出。
46日(金) ドキュメンタリージャパンに連絡し、企画書提出するが、「答えの見えないものを取材はできない」と断られる。

◆  2008年
8月 まりこさんと弟の孫リンさんが村山の結婚式に参列
-日本郵船(1945年の入船確認)、フジフィルム本社と千葉大学工学部教授接見(写真複製が可能か確認)。
 
◆  2009年
3月某日 「日本の苗字7000傑」を頼りに、「音」姓の多い石川県金沢市及び「楠原」姓の多い広島県に手当たり次第電話で確認を行う。
 
◆  2010年~2016年 まりこさん宅を幾度となく訪問。
 
◆  2013年8月 まりこさんに「行方不明」のプレートを頼まれ、作成。
 

◆  2017年
3月 天皇皇后両陛下が初の渡越。一部の残留日本兵の家族と面会。

天皇皇后両陛下を乗せた政府専用機をハノイのノイバイ国際空港で待つ。残留日本兵の梁木さん家族
201735日 ハノイ市)

天皇皇后両陛下来越の新聞記事を見るまりこさん
2017310日 サイゴン(現ホーチミン市))

10月 一部の残留日本兵のご家族が来日。

◆  2018年4月 何の手がかりもつかめないまま、現在に至る。

まりこさんと出会ってから、ぼくはずっと彼女の父親を探しています。
 
太平洋戦争終結後、73年が経った今、まりこさんのお父さんが生きている可能性は限りなく低いかと思われますが、彼女は「たとえ父が亡くなっていたとしても、お墓参りをし、再会したい」とおっしゃっています。
 
しかし、現在、なんら手がかりがありません。
 
お知り合いの方に太平洋戦争時代にベトナムに行っていらっしゃった「くすはら」もしくは「くずはら」という姓の方、また何らかの手がかりと思われるものがありましたら、村山までご一報くださると嬉しく思います。
 
2010526
(改定)2018424
村山康文